雑学ノート

 塾長が徒然に目にした記事の中から、勉学と受験に関わる面白い話や、参考となる情報、そして興味を惹かれるものの 見方・考え方を掲載しています。また、日常に見聞きする、教育に関るあれこれの事柄に触れて思うところを、時々、呟いたりしています。

 なお、前半のオピニオン記事の場合、それぞれの文章に必ずしも全て賛同するということではなく、塾生が自分の問題として考えてみる、また保護者の方が現在の教育について考える、その良い切っ掛けを与えるのではないかと思われる記事を各種媒体から収集しています。(不定期更新)

いろいろと集まってきます

あれこれと呟いております

  • 2024年 3月
     首都圏では、中学受験が過熱していると言う。小塾のある愛媛県でも、全国的にもそこそこ有名な歴史ある私立中高一貫進学校がある関係もあり、首都圏のマスコミ情報に踊らされるように、小学生を持つ保護者の皆さんもまた、中学受験を視野に入れて子どもの教育を考えていると言うのが、昨今の地方都市の教育事情である。

     確かに、公立中学の定期試験結果を見る限り、年々と言って良いくらい、平均点が下がってきている様に見える。小塾の塾生の持って来る成績表には学年平均点が記されているが、数学、英語はもちろん、他の教科も平均点は概ね50点を越えてはいるものの、中には、50点を切る場合もそれほど珍しい事ではない。教育熱心な保護者の皆さんの心配は良く判る事ではある。

     小塾に相談に来られた小学校6年女子の保護者の方が、「中学校の先生に聞いてみたんです。そうしたら、その先生、『私は、子どもを(地元の)私立中学校へ入れています。』とお答えになったんです。」と心配顔で問いかけるように塾長に言った事がある。その保護者の方は転勤族で、自身が国立大学付属中高一貫校を卒業していることもあり、自分の良く知らない公立中学へ進む事に不安を感じていたのであろう。

     小塾では、中学受験をすべきである、あるいは、すべきではないと言うように、どちらかに決めつける一方的な姿勢は採らないが、常々、マスコミによりつくり出されたかの様な、狂騒とも言うべき世情の姿とは少し間合いを取っているせいか、どうしても過度に熱心な中学入試を批判的な眼で見てしまう。

     確かに、別の所にも書いたように批判すべき点があれば遠慮なく批判してもいる。しかし以前
    『塾長のブログ』にも書いたが、塾生自身が持つ将来の希望を実現するために必要とあれば、その希望を叶えるべく、中高一貫進学校の中学入試の学習指導に万全を期す事もまた言を待たない。

     ただ、下記のような1,000人にも及ぶ生徒を指導した経験のある塾講師の話は、一旦、塾長自身の考えとは離れて、改めて、客観的な目で耳を傾けてみるべき事であろうと思っている。特段の具体的目標を持つ訳ではない小学生の子を持ち、進学方針に悩む保護者の方々には、一読をお薦めしたい。
     なお、各表題は出版社が付けるものなので、かなりセンセーショナルなものになっているが、中身は落ち着いた内容であることを付言しておきたい。

     「今の中学受験は“バブル”」「先取り学習が大学受験に有利なはずがない」ベテラン塾講師が明かす「中学受験に熱中しすぎる親子の危うさ >

     < 英語がペラペラなのに国語と社会が“壊滅的にできなくなった子”も…ベテラン塾講師が教える「英語の先取り学習」のリスク >

     < 学力が低いのに「早稲田」に入学できてしまう学生も…大学受験を“不公平なシステム”にしてしまった「指定校推薦枠」の功罪 >

  • 2023年10月
     言語が思考に密接に関連している事を改めて示した研究結果が出てきた。以前より、言語と思考能力との間には密接な関係があること言う研究者が少なからずいたようだが、今回、脳の神経伝達システムを研究するニューロネットワークにより、改めてそのことを指摘する研究成果が現れた。

     この成果が追試され、さらに深く研究されることで確証されていけば、幼少期の言語学習の在り方に大きな変化をもたらされざるを得ないだろう。現在、教育制度として小学校、あるいは幼稚園段階から英語の学習が始まっているが、その目的が、これからの日本社会あるいは日本文化を担う若者たちの育成にあるのであれば、英語の学習のために国語や社会の学習時間を削るようなことは、厳に避けねばならないということになるだろう。

     英語をはじめとして、他国の言語を学ぶことは大事なことであるが、その前に、学ぶべき母国語があるという事だ。それを疎かにし日本語の前に外国語の思考に馴染んでしまうと、真面な日本語が怪しい人々の群れが、日本の国に溢れるようなこととなる。繰り返すが、英語の本格的な学習は、日本語の基礎がしっかり身に付き、不自由なく日本語を操れるようになってから行うべきことである。この事を改めて肝に銘じるべきだ。

     参考までに、記事の一節を以下に引用しておく。

     ”これらの新しい研究結果は、言語が私たちの思考に与える影響は、これまで考えられていたよりもはるかに強く、重大であることを示唆している。ヴィルヘルム・フォン・フンボルト以来、何人かの言語学者が思考と言語が相互に関連していることを指摘してきたが、言語が私たちの思考に大きな影響を与えるという考えは、研究者の間ではどちらかというと不評であり、少なくとも大きな議論を呼んできた。

     今回、脳を拘束したネットワークを用いた新しい結果は、シミュレーション実験において、言語が概念形成に強い影響を与えることを示している。また、言語が思考に及ぼす因果的影響の神経生物学的メカニズムの存在を示唆している。”

      New Type of Neural Network Reveals How Language Influences Thought

     また、日頃、中・高生に至るまで英語の学習指導をしている身であるからと言って、常々注目しているというわけではないのだが、全くの偶然に下記のような記事も相前後して目にしたので、一読を願いたい。長年、大学で英語教育の研究を続けてきた先生の発言。現今の、英語の無暗な早期教育の在り方がはらむ問題点を指摘している。

     
    < 「小学生に英語授業」は間違っている? 学力テストで英語の成績は低下、「話す技能」
     は6割以上が0点 >

  • 2023年 5月
     日本には古来、「無用の用」ということばがあり、一見、無駄なように見えるものでも、局面が変われば、大変に大きな働きをするという意味で使われる。
     元々は、紀元前300年頃の中国の思想家「荘子」が書いた書物『荘子 人間世』の中にある、「人皆知有用之用、而莫知無用之用也」という言葉から来ているようだ。「人は皆、役に立つものが役立つことは知っているが、役に立たないものが役立つことを知らない」と言う意味になる。

     近年、動物行動学の研究で、一般に「社会性昆虫」あるいは「真社会性昆虫」と呼ばれる、アリやハチなどが、一匹の女王を中心とし、その女王のために働く「働きアリやハチ」で構成される社会には、必ず、何もしないで、ただウロウロしているだけのアリやハチが、凡そ、2~3割も居ることが明らかにされている。その社会にとっては無駄に見えるのだが、それでは、それらを無用として取り除けばどうなるか。この結果が大変に興味深く面白い。

     なんと、残ったアリやハチの中から、必ず、働かないアリやハチが現れるのである。それも、凡そ2~3割。また、それではと、働きアリやハチを全て巣から追い出すとどうなったか。驚いたこと、それまでウロウロするだけで働いていなかったアリやハチが、働きアリやハチとなって、その社会を救ったと言う。

     つまり、社会性昆虫にとっては、働かないものはその社会が危機に瀕した時に活躍するための交代要員として、是非とも必要であったわけだ。普段は働かないで英気を養い、体力を温存し、社会の危急存亡の時に備えている、必須の存在だったというわけだ。

     下記は、些か古いが動物行動学によりこの事実を明らかにした文献から取られた記事と、最近になって数理物理学の視点から記された「無用の用」に関する論考だ。後者は前者を少し下敷きにしてはいるが、普段はまったく接点が無いかに思われる2つの分野の視点から、われわれ生き物の社会に対して共通の認識が示されていることになる。このホームページの読者には、昆虫の世界のことと冷めた見方をせず、是非、一読し一考を願いたいものである。

     < 社会の維持に不可欠な「働かないアリ」の存在 > 
     

     < 全員で働けば効率がいいのに、なぜ「働かないアリ」がいるのか? >

     <「働かない社員」がいた方が企業は存続する? 数理物理学者が提言 > 

     「無用の用」は、われわれ人間社会にとっても忘れてはならない必然性があるという事である。また、歴史的に長い時間かけて揉まれて残ってきたものの考え方には、文字通り無用なものはないという事であろう。

  • 2023年 4月
     そう、数十年前から東京の高校教育制度が大幅に変更され、都立高校が大学区制から小学区制となり、それまで、都内はおろか関東全域から優秀な中学生がこぞって進学していた、旧制中学以来の、知る人ぞ知る名門校が、徐々に、その勢いを失い、いまや、私立中高一貫校の中でも、特に優秀な生徒を擁する著名な進学校の後塵を拝するまでに衰えている。

     なぜ後塵を拝するようになったか。その理由は至って簡単で、私立の中高一貫進学校では、早いところでは、中学3年、遅いところでも、高校1年までに高校三年までの学習を終え、後は、受験勉強に邁進しているからである。下記は、その確たる証拠となる記事だ。優秀な生徒たちが、熱心に勉学に励んだ結果であるので、決して悪い事ではないが、しかし、何だかおかしいと思うのは、私だけだろうか。

     公立も後に続けとばかり、中高一貫性を導入し始めている。となると、疑問に思う事がある。それが可能であれば、全ての中学校と高等学校を中高一貫校に編成すればどうかと思うのだが、奇天烈な思い付きだろうか?子どもの成長の度合いや、持って生まれた能力には大きな幅があるのだから、そこを無視するような制度は、流石に無謀、問題があるだろうと思うのが常識的な判断だと思う。

     とすると、現在、特に大都市部で盛んにおこなわれている中高一貫校制度は、特別な生徒の能力別教育機関を社会的に認知するための制度であるという事になる。それが、日本社会に様々な豊かさをもたらし、世界の人々に貢献する人材育成制度として最適であれば、それでも良いかもしれない。しかし、少なくとも現在の日本の、一次産業の育成や環境の保全、二、三次産業の企業業績、大学などの学術研究成果は、世界のレベルで見ると、年を追うごとに低下して仕舞っている。やはり何はおかしいのではないだろうか?

     データの深読みが過ぎる奇妙な話題の展開かも知れないが、しかし、少なくとも、知っておくべき”貴重な”データであるという事は確かだろう。

     < 東大理系現役合格者の79.5%が、高2のうちに数学全範囲修了 > 
     
  • 2023年 3月
     少し前より、小さいながら関連する記事を目にすることがあり、密かに注目していたが、ここまで確たるデータで具体的に裏図けられると、看過できない。事は深刻だ。本コラムにおいても、過去に幾つか、記事を掲載させてもらっている様に、場合によってはICT教育にも大きな暗い影を落とすことになるだろう。
     もし、ICT教育に問題点があるとすれば、本問題と類似の課題がある可能でが高い。それらを明らかにするためにも、更なる研究の深化を望みたい。


     < 研究者が思わずゾッとした「子どものスマホ使用時間と偏差値の関係」
       小中学生7万人調査でわかった衝撃の事実 >
     

     < 中学入学時にスマホを買い与えると脳の発達が小6で止まる
       …スマホを毎日使う子を3年間追った衝撃の結果 >


     < スマホを長時間使う子どもは脳の発達が阻害される
       …220人のMRIで見えた「不都合な真実」 >


     第三者の研究者たちの同種の研究成果と照らし合わせる必要があるが、その結果次第では、文部科学省の推進しようとしている『GIGAスクール構想』は一旦停止し、詳細かつ大々的な調査を行う必要があると思う。本記事は、現時点での重大な問題提起と見ることが出来る。

  • 2023年 2月
     下記は、灘中学校校長が自校の歴史教科書選定に際し、外部から「謂れなき圧力」を受けた後、その経緯について書かれた文書である。政治的背景のある圧力だったようだが、検定を通過した教科書を採用することには何の問題もない。

     人それぞれ、色々な考えがあって良いが、学術研究の結果に裏付けられた内容を基に書かれた教科書を、社会の評価に耐え得る立派な教育方針を掲げる私立学校が採用することに対し、妄想的考えに固執した非難を向けることは有ってはなるまい。 日本の社会が、こうした圧力を容認する様であれば、正当な多様性を損なった社会となり、将来が危うくなると言えよう。

     塾生を指導する立場にある者として、心に留めておきたい出来事である。また、校長の毅然とした態度に敬意を表したい。

     < 謂れのない圧力の中で ̶ ある教科書の選定について̶ >
     
  • 2023年 1月
     今年も共通テストの時期となって来ました。昨年は高校3年生の入試対策の一貫として、2021、22年度の共通テストの問題を塾生に解いて解説し、類題の演習を行いましたが、その際、薄々感じていたことが下記に書かれています。数学教育の専門家に朝日新聞の記者がインタビューをした記事です。そこには、高校2年生へのアドバイスとして次のようなことが語られています。

    ―― ⾼校2年⽣のみなさんへのアドバイスをお願いいたします。
     共テのためだけに求められる⼒があります。⽂章を読んで、問題設定を理解して……。計
    算の速さや要領の良さなど、数学の⼒とは違う⼒を求められ、早押しクイズのような側⾯も
    あります。こうした⼒をつけるには訓練が必要です。

     ただ、このようなことは、僕は高校3年の夏からで十分だと考えます。共テ向けの勉強に
    多くの時間を費やすのはもったいない。まずは数学の基礎の力をしっかりつけることに注力
    してください。

     < 共通テスト数学 解けない…!に慌てないための、二つの心構え > 

     共通テストの問題を解いていて、筆者も同様の感想を持ちました。確かに時間がもったいない、他にするべきことはたくさんあります。クイズでも解くという事であれば、問題はないかも知れませんが、数学の力、数学的に考える力を問う事が建前の試験、それも全国一斉に50万人程の高校生が受験する試験です。適切な試験制度となっているでしょうか?

     縷々述べるべきことは多々あるのですが、下手な文章よりもインタビュー記事を読んで、大学入試共通テストの存在意義を改めて考えてみて頂きたいと思う。それは、即、大学入試センターの存在意義の当否を考えることに直結します。筆者には、同センターが文部科学省の官僚と関連団体役員のために存在するのではないかとすら思える時があります。

  • 2022年11月
     子どもを育てる際、巷間、良く言われることは「褒めて育てる」であるが、このブログの筆者は、子どもが小さな壁を呪い越えるたびに「驚く」ことが重要だと言う。褒めると子どもは喜ぶが、それは長くは続かず、成長するにつれ、褒めてばかりだと子どもは自分が親に「育てられている」と感じ始めるという。褒めるよりも驚くことが大切だという考えのようだ。そして、次のように言う。
     
     

     ”私は大学入学と同時に塾を開き、様々な親御さんと接し、「もし自分が親になるとしたら」というシミュレートをずっとしてきて、様々な事例を収集してきた。で、「子どもが進んで学び、成績も良好」というのは、親の学歴とどうも関係ないな、と私は感じている。

    共通するのは、
    ・勉強しろとは一切言わない
    ・子どもの工夫、発見、意欲に気づくと驚き、感心する
    ・子どもが学びたいと言ったら支援を惜しまない
    ・子どもに遺伝的レッテル(俺の子どもだから頭がいいはずだ、悪いはずだ)を貼らない
    というのが、私のこれまでの観察結果。

    ...意欲、工夫、発見に驚くようにすると、子どもの意欲は高まり、工夫を益々するようになり、観察眼が鋭くなって発見が相次ぐ。こうした子どもは学ぶこと自体が遊んでいることと同じになり、楽しんで学ぶ。だから自然と成績もよくなる。”


     <{仮説}学ぶことが好きで成績も良好な子どもの親の共通点 >

     興味深い論考だと思う。日頃、小学生に対する指導で苦労することが少なくないが、取ってつけて様に褒めるよりも、まず、”驚く”こと。試してみようと思う。

  • 2022年10月
     神戸学院大学名誉教授の内田樹氏が、大学の運営を巡って後列な皮肉を放っている。この数年の日本の研究力の低下は、目を負いたくなるほどであることは、昨今の新聞・テレビあるいはネットニュースなどで見聞きされる方も多いと思うが、それはなぜか。その理由を、政府関係者の言葉を模して、短い文で鋭く指摘している。

     問題の根は30年前からの大学院重点化、その後の国立大学法人化に指を屈するが、文科省やその財布である財務省が足掻けば足掻くほど、事態は悪化してきたのが、この10年。それにしても「改革」なるものを主導した財務省の責任は大きい。さて、どうするべきか。

     < 日本の研究力の低下 >

  • 2022年 7月
     この2,30年前からの文部科学行政に対して、塾長には言うべきことが山ほどあるが、塾長の駄文よりも、4年前のものであるが的確に問題点を把握し明確な論旨で問題点を指摘している、神戸学院大学名誉教授で思想家の内田氏の論考を転載しするので、皆さんに是非一読してもらいたいと思う。以下に、氏の論点の一部と文部科学行政の異常なまでの迷走ぶりが、如何なる要因に拠るかを想像させる部分を事前に抜き出しておきます。

    『...先日、京都大学の山極壽一総長が「法人化は失敗だった」と断言して、話題を呼んだ。法人化以後、研究費と研究者数と研究時間が減らされているのだから、それで研究成果が上昇したら奇跡である。まことに愚かなことをしたものである。国立大学の独立行政法人化は21世紀の初め頃から日本社会を覆い尽くした怒涛のような「株式会社化」趨勢の中で決定された。
     (中略)
    ...それは文科省が「例外的に不道徳な人物」が異数の出世を遂げることができる組織であるということを意味するだけでなく、「それが暴露されたら教育行政に対する国民の信頼に傷がつくリスク」と私利をてんびんにかけて、私利を優先させるほどに判断力の不調な人物が(平たく言えば「頭の悪い人物」が)日本の科学技術と学術政策を起案していたということを意味するからである。』

     
    < 大学の株式会社化について-科学技術白書が漸く日本の学術的発信力低下を認めた-

  • 2022年 1月
     なるほど、こういう事だったのか、と最近になって腑に落ちたことがある。小塾では国語は他にも増して大事な科目であると考えているので、入塾の相談に見える保護者の方に、国語はどうですか、問題ないですか、と聞くことにしている。多くの場合、あまり芳しい成績ではない事が多い。また、国語の力は習うよりもたくさん本を読んだ方がいいという考えが強固に定着しているようだ。それも間違いではないが、それで済むことでもないのが実情だ。
     
     国語も何と成績を上げたい、読解力をつけてもらいたいという保護者の方には、時間的、経済的余裕があれば国語の受講も進めている。これまでの経験では、小学生の場合には国語学習の要望は必ずと言って良いくらい出てくる。中学生以降となると、目の前の数学・英語の成績を上げたいという願望の前に国語が霞むことが多いが、それでも出来る生徒の場合は、理科と国語等という組み合わせを希望することもある。
     
     なかなか伸びの見えない科目だが、それでも、これまでの経験では、塾生本人は結構楽しみながら頑張っている。読解文の課題文に面白く興味を引く題材を選ぶようにしているので、内容を楽しむ序に読解の設問に取り組んでいるように見受ける。読解の技術を身に付ける事が目先の目的であるが、実は、それは二次的な目的で、こうして論説文や文学的文章に親しむことが主な目的だ。その意味では小職の意図は成功していると言えそうだ。

     国語の演習講義はこうした状況にあるが、小学生の場合、教え始めて以来、不思議に思っていたことがある。漢字の「字形」、止め撥ね、伸ばす、抜き出す出さない、といった細かな書き方の事であるが、小職世代では授業中に厳しく指導され、テストで少しでも間違えると容赦なく✖となったものだ。ところが、現在の小学生は一向にそうした字形を気にする様子が見えない。不思議だな、いい加減に教えてるのかなと思ったりもしたが、実は今は下記のような「指針」が文化庁から出ていると知り、大いに納得。文部科学省の教育行政に是非生かしてもらいたい。

     < 漢字「とめ・はね」で×の誤解 「字体」と「字形」知らない先生も >

     書かれている「字体」と「字形」の区別にかかわる内容には、ああ、そうだったのか、そうだよねぇ、と思わず膝を打つ。字の一本一本、一点一点の構成、つまり字体が正しければ、細かな字形を気にすることはないという事だが、考えてみれば、毛筆とボールペンで同じ字形にすることがそもそも無意味で、私たちが過去に受けた漢字教育はある時代の毛筆文化に囚われたものでしかなかった、今はそれを改めたという事だ。多いに納得の今日この頃、一読、皆さんも同じ思いになるではないだろうか。

  • 2021年12月
     ある高校教員の「第三の失敗」への危惧は当然だろう。それでなくとも多くの高校生が、大学入試センタの試験で受験までの期間が短くなっていることで教科の消化不良に陥っており、さらに消化不良のネタを重ねるわけだ。
     大学教育制度をコロコロと改変する人々に、何とも言えない不信感がフツフツと沸いてくるのは小職だけだろうか…。英語のリスニング・スピーキングと同様、プログラミング初歩程度なら大学初年度半期で十分だ。後は、各自が努力すれば良い。


     < 国立大受験生に「6教科8科目」案 「情報」を追加検討 >
     < 国立大受験、6教科8科目へ 25年共通テストから「情報」追加 >

  • 2021年12月
     21年4月にも同じ論考を元に、いささか塾の宣伝めいた記事を書いたが、改めて別の切り口で短い文章を書いてみた。一言で要約すると自然科学や数学と違って、モノゴト、一筋縄では行かない事が多いという事だ。しかし、答えの出ない問題を「考える」ことの困難さと重大さを知ることも、勉学の一部だと思う。

     学習指導要領の大幅改定により、教科書の世界にも大きな変化が始まった模様だ。「答えのない教科書」、これは小塾での指導理念と共鳴する方向性。「答えのない課題をどう捉え、どう行動していくべきなのかを考える」、その思考過程を経ることで、「自律した人」となる道が見えてくるように思う。

     < ”答えのない教科書”のぞいてみませんか >

     もちろん、答えは人による。しかし、そのままだと、社会は混沌として来て混乱し疲弊する。答えはないが、しかし出さねばならないのが世の中だ。塾生たちにそこまでの難題を投げかけることはないが、思考を極める努力をするきっかけとなる教材の登場は歓迎すべきことだろう。
     世の「大人」達は、世慣れた、言い換えれば汚れの付いた思考を、まだまだ大きな可塑性のある若者たちの押し付けることなく、また若者たちも大人たちに媚びることなく、「考える」努力を惜しまずに続けて欲しい。人生は意外と短い。


  • 2021年 5月
     従来より文部科学省の進めるGIGAスクール構想で注目されているコンピュータを使った教育に加えて、新型コロナ禍の最中における遠隔教育指導に関連して、ICT教育に注目が集まる時代となったが、塾長には、デジタル画面を使うコンピュータ利用教育には、一抹の不安というか、大きな疑問がある。

     それは、アナログ情報処理で育った世代のデジタル情報処理への違和感に過ぎないのではないか、という指摘には検討すべき点があると思う。しかし、現時点では、上の「いろいろ拾い集めてみました」の2021年3月~5月の項に掲載したように、教育のプロやAIを使った情報処理の専門家などの研究成果や考察にも、同様の危惧が表れている。

     それは、ひとことで言うと、「コンピュータ一を1人1台配布」して教育すれば、デジタル時代に適応した教育が達成され、教育レベルも上がる、というのは間違っているのでないか、逆に下がるのではないかということだ。例えば、透過光よりも反射光による情報、つまり、ディスプレイに現れる情報よりも印刷された情報の方が、情報処理の際に、より思考力を使い記憶に定着しやすいと言う指摘もされてる。

     実際、小塾でも偶にICT教育の真似事を行うが、塾生の様子を見ていると、画面を見て視覚と聴覚から情報を仕入れ整理する作業に身が入っているとは思えないし、深く理解することは難しいと言うのが実感だ。まだデジタル教材の質が低いと言ってしまえば、それまでだが、しかし、効率的な情報処理ということと、考える教育のための情報の入手と言うこととは、実は違うことなのではないかと想像せざるを得ないのが実感だ。

     もちろん、これから先、素晴らしいで優秀な教材が出てきて、この危惧を払しょくするかもしれないが相応の時間が掛かるだろうと思う。なにはともあれ以下を再読、熟考いただきたい。

     < 紙の手帳vs.電子メモ!? >
     

     < 紙の手帳の脳科学的効用について >
     

     < デジタル教科書導入、「所有から利用」で見過ごせぬ論点 >
     

     < PC1人1台で学力低下? 「最低レベル」日本を救う道 >
     

     自律塾エルムでは、常々、デジタル教育に関わる情報には気を配っていくつもりだが、当面は、従来のアナログ教材による、深く考えることを促す指導に注力するつもりだ。

  • 2021年 4月
     ついに出てきた。お化けに終わるかと思ったが、そうでは無かった。「答えのない問題」と言うよりは、「”正解”のない問題」あるいは、「複数の”正解”があり得る問題」と言った方が良いのかも知れない。条件を設定することで”答え”が出ることも有るし、複数の”答え”から、条件により一つを選択せざるを得ないことも有り得る。それも”答え”と言えなくもない。

     < ”答えのない教科書”のぞいてみませんか >

     自律塾エルムでは、このような「答えのない問題」に取り組むに際して必須の、データの分析力、概念の構想力と論理構成力、そして表現力の育成を目指して、日々、塾生を鍛えている。


  • 2021年 3月
     教育事業に長年携わる「株式会社ベネッセコーポレーション」の研究成果である。読書の効果について、客観性の担保には難しいところある様に思うが、”定量的”な評価がなされており、大いに参考になる。塾長の指導経験を重ね合わせると、頷けるところ多々ありである。
     特に、国語の読解力向上が他教科の成績、中でも算数、数学の成績向上に密接に関係している結果は注目すべき点で、既に言われていることではあるが、定量的な研究成果が気軽に読める形で提供されたことは有難い。


     < 【小学生の読書に関する実態調査研究】 「読書は知識と思考力を伸ばす」 >

     < (同上) 「幅広い読書が『思考力』や『創造性』にプラス効果」 >

     < (同上) 「読書は学力が低い子どもたちに大きなプラス効果」 >

     もっとも印象深い結果は、元々出来る子の場合、「挑戦問題」に対する評価が最も大きく上がっていて、他の2つ、「知識問題」、「読解問題」よりも一層大きな読書効果が出ている点だ。読書が”問題解決能力”の向上に資するということになると思われるが、巷間言われていることを裏打ちする結果で、注目すべきところだろう。
     加えて、「幅広い 種類の読書をした子どもほど、興味や知識の広がり、考える力(思考力)の向上、創造性の涵養など、さまざまな力の高まりを感じているとともに、教科の 学力、特に『社会』の成績も向上していること が明らかにな」ったことにも注目したい。広く社会に目を向けることの出来る視野を持つことに繋がる。教育の最も重要な存在理由の一つだ。

     これまで、読書をしてもそれほどの効果はないとも言われることもあったが、全員に効果があるわけではないにしても、調査結果からは明かな効果が見て取れる。国語力の研鑽は子どもの教育に必須だと言うことが改めて示されたと言って良いであろう。それは、そのまま人づくりでもある、大人も心したいところだ。

     先般、新しい大学入試共通テストの関係して、余り評判の良くないベネッセであるが、こうした地道な調査研究は高く評価したい。


  • 2021年 1月
     この二つの記事と論考、何気なく読んでいると、全く別のことを書いているように見えるが、片や新教育指導要領に謳われた「SDGs」教育重視の視点から、もう一方は「個性から学力へ」一回りして移り行く学習指導要領の内容を取り扱ったものであり、後者は中高生の教育、前者は小学生の教育を中心という違いはあるが、どちらも既に移行の始まっている最新の「教育指導要領」の大きな変化を受けて書かれたものである。

     特に後者は、学力重視への回帰に注目しており、単なる学力のみならず、1クラスの生徒数削減、教員の自由裁量権の拡充などへの言及もあり、教育現場の表には出にくい声を反映したものとなっている。前者は、これから世界的な潮流でもあり、日本においても必須の持続可能な発展をなすために必要となる教育の実践を取り上げている。いささか、文科省御用達の感がぬぐえない記事ではある。

     < 新学習指導要領「前文」読み解けない学校の末路 >

     < 個性重視から学力重視へ 学習指導要領・学習成績評価法など >


     どちらのも、大いに参考になるが、特に前者は、新しい学力観として、世界的に貢献することのできる環境問題への社会的責任を遂行する人材育成について、新たな学習指導要領の「前文」の内容の実践をもとに話を展開してある。
     後者にも新しい学力観から見るという点で共通のものがあるが、後者が前者と決定的に違うことは、今後の展開を必ずしも楽観をしていないことだろう。積み重なる初等教育の試行錯誤の失敗再現を懸念しているようでもある。何はともあれ、「新たな学力」に注目したい。


  • 2020年11月
     うーん、昔からよく言われていたことだが、やはり、早生まれは後れを取るのかぁ。塾長も早生まれだが、小学校から中学校にかけては体力と言うか持久力に欠けていたのだが、それは単に生得的な身体の特徴に過ぎないと考えていた。あれは、もしかしたら早生まれ故に、周りの生徒たちとの成長の差が大きく目立ったということだったのかもしれない。

     < 早生まれは大人になっても損をする? 東大教授が説く「不利のはね返し方」 >

     塾長の場合、「認知能力」つまり、知力はそれほど劣るは思わなかったし、今に至るも差があるとすれば生得的能力差であろうと思うので、いまさら気にはしない。
     しかし、これから成長する生徒たちにとっては、認知能力はもちろん、リーダシップを取る等に関係する「非認知能力」が同じ学年の中で劣ると言うことになれば、確かに、大人に成るまで過程での影響は大きなものがあるだろうし、それが、後年に至っても影響するとすれば、看過できないことであろう。


     「生まれ月によって生じた差は、入試制度によって固定化されてしまうのです。遅生まれの子供は偏差値の高い高校に進み、優秀な教師や友人と出会い、レベルの高い大学に入学し、⼀流会社に入社するといった正のスパイラルに乗りやすく、早生まれの子供は負のスパイラルに陥りがちになります。だから、成人になっても差が続くと考えられます」(山口教授)

     < 早生まれの不利は想像以上に長く続く 東大院教授が発表した研究結果 >

  • 2020年11月
     その通りだと思う。大げさに思われるかもしれないが、その都市とそれを中心とした地域の存続がかかっている。塾長がブログに書いた記事(「塾長のブログ(4))と平仄が重なる話だ。

     < 公立高校は地元の宝~教育による地方創生 >

     全体のために個人が犠牲になれとは決して言わない。しかし一方で、個人の望みの実現は社会の存続のためでもあることを認識してほしいと思う。その意味するところは、「社会」を「日本」と読み替えてみれば、多言するまでも無い事だと思う。

     < 中学受験についての考え方 - 塾長のブログ(4) - >

     地元に立派な公立進学校が無いと言うならまだしも、優秀な生徒の集まる歴史ある高校があるにもかかわらず、聞くところによると、小中学校、塾、予備校の先生は、成績優秀な生徒を他市の私立進学校や、あろうことか公立進学高校へ進学することを勧める傾向にあると聞く。所属組織や自塾の業績評価につながるからだと言う、言語同断であろうと思う。

     偏狭な縄張り争いではない。日本の社会が各地域を担う中小都市の健全な集合体として存続していくためには、各地域の維持存続への道を確保する事が必要だと考えるからだ。そのためには、地元の有能な生徒を地域の風土を身に着ける少年・少女期まで育て、その上で広く社会で活躍する人財の卵として全国に知られた大学へ送り出すことは必須であると考えている。

     要件の一つとして、優秀な公立高校の維持発展は欠かせない。その後押しに資するよう努力することは、地域の教育に携わる者の責務であると思う。そういう面から、
    自分たちが何のために教師、学習指導者をしているのか、誤解あるいは考察の足らないところがあるのではないか、と改めて一度考えてみてほしい。地域社会存続資する理念ある教育が必要とされている。

  • 2020年10月
     高校生の国語を「論理国語」と「文学国語」の選択科目にするという。凡そ信じ難い愚行だと思われるが、文部科学省やそれを後押しする政治家たちは、「AI」技術の発達などの、世の中の趨勢を読んで、日本の国力を落とさないため対応だと言いたいのだろう。

     < (社説)高校の国語 文学と論理 境を越えて >

     この、文部科学省の進めようとしている道が何を私たちの社会にもたらすか、Twitterに載った、次のコメントを参考にしていただきたい。世の中には見るべきところを見ている人と、それが全く見えないかのように制度をいじる人、色々な人が居るということだろう。


     「文科省は今後のAIなどが発達する情報化時代に対応するため、”人間ならではの考え抜く力を培う”ために『論理国語』なるものを推し進めたいようだが、『論理国語』なるのもので『論理的思考』を鍛えれば鍛えるほど、容易に、AIにとって代わられるようになってしまうのではなかろうか?」

  • 2020年 7月
     随分と思い切った試み、と言うか、素晴らしい試みだ。今後も、継続的に社会的課題に目を向ける教育をしてほしい。それでこそ私学ならではの、独自の理念に立つ教育というものだろう。
     元々、歴史ある私学の有力進学校は、生徒の自主的自覚的な知的鍛錬(これを、エルムでは「自律」と呼ぶ)を促す校風の学校が多いようだが、灘中学は、それをさらに大きく超えたといえよう。公立中学も、というか教育委員会もと言うべきか、ぜひとも見習ってほしい。

     < 灘中学の生徒に「格差社会と自己責任論」について、ビックイシューが出張講義 >

  • 2020年 3月
     2月の茂木さんのインタビュー記事に重なる内容だ。というより、内田、茂木両氏の教育観が、期せずして、見事に重なったと言って良いだろう。お二人は、思想家であり脳科学者であるが、特段に難しいことを言っているわけではなく、教育が何のため誰のためになされるべきか、それを極めて基本的なところから解き明かしてくれている。

     この内田さんの論考は一つとして難しいところはない。簡単にまとめれば、次のようなことになるだろう。すなわち、教育は、個々人の利益や立身出世のためではなく、共同すべき社会の維持のためにある、ということに尽きる。

     なお、ここで、急いで付け加えておかねばならないことは、社会の維持のためと言っても、それは、決して偏狭な政治思想を持つ政治集団、政治権力のためでも、また、経済活動をもっぱらとし、利潤を上げ資本を蓄積することを直近の使命とする経済界のためでもない。

     <「教育再生実行会議」がお墨付きを与えた「アベノミクスのための大学入試改革」>

     教育とは、一人一人の居場所と社会の維持への貢献の場を、一人一人が自分の潜在能力のすべてをかけて、磨き、発展させ、そして持てる才能を十全に発揮することで、「自治共同体」としての社会を維持していくためにあるということだ。言い換えれば、社会の鏡に映る自己の姿に恥じるところがないよう、努力する手段として教育があると言っても良いかも知れない。

     < ビジネス化する教室 -かつて子どもは「種子」だった- 内田樹 氏 >

     こう考えていくと、一部の教育産業へ利益を供与することを政治家が自己の利権のために利用しているのではないかとも見える、大学入試英語4技能試験の民間委託などは、教育という範疇を超えた、教育の政治利用とも言え、あってはならない愚行に映ろうというものだ。それこそ、間違った教育観の成れの果てと言えるのかもしれない。

  • >2020年 2月
     茂木さんのインタビュー、自分の「立身出世」のためではなく、社会の「維持と発展」に積極的に寄与する人々をつくり育てる、基礎としての教育ということを考える時、氏の発言は、なかなか的確に核心をついていると思う。なかでも次の下りは、「天才」に限った話ではなく、その通りではなかろうか。

     もっとも、こうした方向で、まともに機能する制度をつくろうとすれば、実務面で相当な苦労があるだろうことは、想像に難くない。しかし、教育が国家百年の計であるならば、何とかつくり上げていく必要があるだろう。


     「IQ(知能指数)50%、身長70%遺伝しますが、天才は遺伝しないのです。個人の資質と時代が出会った時に、天才という事象が生まれる。偏差値で輪切りにして、この大学に行きなさいみたいなやり方が一番最悪です。現状の日本、成績がいい人が東大に行くとか、行き先が狭く定まっている。こういう融通のない社会、いろいろな出会いの組み合わせが起こらない。いろいろな人が、いろいろなことを試すことができるというの、結局、組み合わせを通しての天才が誕生するきっかけになっていくんだろうと思います。」

     < 知識や洞察力のない人による教育改革は悲劇 茂木健一郎氏 >

  • 2020年 1月
     強く同意するなぁ…、大学や専門学校あるいは、職業に就くと、いやでも視野が狭くなり頭が固くなるんだから、一番伸び盛りの高校時代には、浅くてもいいから、文・理の壁を越えて広く知識を習得しておくべきだろう。そのためにも、現行のような高校1年を終えた時点での細かな文・理の分け方は止めるべきだ。

     < 文系と理系、コース分け早い? 早大政経学部長が問う >

     科学技術に関わる視点で考えてみると、明治時代に近代化へ邁進し始めて以来、日本人にとって、近代科学は急いでコピーしてきた「借り物」でしかなかったが故に、いまだに、科学技術リテラシー(≒読み書き能力)の欠如が著しいものとなっている。
     
     日本に限ったことではないが、非欧米文化圏とは異なる歴史を歩んできた社会においては、人類にとって、必ずしも希望ある行方を見通せているわけではない、混沌とした「グローバル化」なるものが進めば進むほど、それは致命的な欠点となりうる。欧米文化圏と非欧米文化圏との近代科学技術の理解度の乖離は、人類全体にとっての不幸につながるだろう。


     そのリテラシーを身に着け、論理的思考力を養うためにも、理系科目、中でも、大学入学前後の基礎的数学の学習は最も有効で、一番の近道だ。大学人のみならず、教育関係者には、是非ともこうした視点をもって、高校生や大学生の指導に当たってほしものだ。

  • 2019年12月
     自滅には違いないが、その原因は、制度設計に際して、専門家の警告を発する意見に耳を貸さなかったところにあろう。文科省は問題があることに気づいていたと思うが、政治家の圧力に押されて、しぶしぶ進めていたのではないか。「延期」ではなく「中止」をすべきだろう。
     良い機会だ、大学入試センターの存在意義まで含めた入試制度の見直し、つまり、少なくとも各大学の自主的な入試1本に戻すことも選択しのひとつとし、熟議を経て検討してはどうだろうか。

     < 【大学最前線 この人に聞く】 かくして英語民間試験・国数記述式問題導入は自滅した >

  • 2019年12月
     今般の「大学入試共通テスト問題」について、「数学」を題材に、推進する人々の考えが間違っていると指摘している。また、その計画を進めた人が誰か、それがよくわかる論考だ。

     < 「共通テスト記述式導入反対論」への難癖はここがおかしい。センター試験も知らずに
      政策決定する愚 >

  • 2019年12月
     定期テストにノートの持ち込み可、これ良いな。問題は難しくなり量も増えるだろう。生徒は自宅学習をせざるを得ないくなる。一夜漬けだけでは、年間を通してみると、良い成績にはならないだろう。加えて、一層のこと定期テストそのものを廃して、単元ごとの小テストを多くすることにしてはどうか。
     そもそも、定期試験については、文部科学省も次のような通知を出しているようだ。【 学習評価について「学期末や学年末など事後での評価 に終始し、学習改善につながっていない」などと指摘、「慣行として行われてきたことでも、 必要性・妥当性が認められないものは見直していくこと」とする 】。


     
    < 定期テスト、ノート持ち込み可 一夜漬けやめ考える力を >

     定期テストは、ほぼ2カ月毎に実施されるが、主要5教科のみならず全9教科に備えて勉強する生徒にとっては、テストの半月前から準備して勉強していかねばならない。そうすると年間で凡そ2、3カ月は、そのために纏まった時間を費やすことになる。それよりも、単元ごとの小テスト繰り返すほうが、生徒の勉学意欲も高まるし、授業を疎かにできないこととなるだろう。このほうが定期テストよりも大きな成果が見込めるのではないか。

     我田引水するわけではないが、塾での指導は毎回必ず演習問題を解くので、小テストの繰り返しを行っているようなもの。学校と塾では、その設立目的に違いがあるが、頭を使って問題を解く力をつけるという役割については同じ。塾が不要にならないのは、学校での演習が十分にできていないから、という側面もあるのではないか。単元ごとの小テストは、それを補うことができると思う。

     実のところ、小塾での指導において、年間スケジュールを組もうとする時、一番悩ましいのは、学校の定期テスト期間をどう組み込むかだ。決して疎かにすることはできないので、指導時間をやりくりするが、そうすると、塾のスケジュールが大変に窮屈になる。中途半端にならないよう、指導時間を増やしたりするが、塾生の負担が増え、彼らも疲れるだろうな、などと考えている。
     学校の先生の作問作業が増えて、それでなくとも「ブラック」と言われている教職員の仕事が一段と厳しくなりそうだが、そこは人員を増やすなどの役割を文部科学省に果たしてもらって、何とかできないだろうか。定期テストを廃止すれば、塾の役割も少し変わってくるだろう。


  • 2019年11月
     大学入試予備校講師を長年続けてきており、大学入試共通テスト対策の参考書も執筆している人が、こうした発言をせざるを得ないところからも、今度の大学入試制度改革が持つ根本的な制度の欠陥や不備は、容易に解消出来るものでは無いだろうと言うことが見えて来る。

     <大学入試採点に学生バイトは絶対反対だ 誰が「採点ミスの責任」を負うのか>

  • 2019年11月
     演劇家の鴻上尚史氏の校則に関わる人生相談が、氏の高校時代の、痛快であると同時に悲しい結末を迎えた”武勇談”を折り混ぜて、興味深く語られている。詳細は下記の引用に譲るが、注目すべき点は、「所与性」に固執する集団としての学校教師の行為が、既に時代に取り残された最後の「世間」であるということ。そして、そうした「世間」での教育に疑問を持たない生徒を輩出し続けていることが、日本社会の現在の苦境の要因であり、将来を暗くしているという指摘だ。

     その中で、「世間」とは縁を切った事例として、2018年11月に、このコラムで紹介した東京都千代田区立麹町中学の工藤勇一校長のことが取り上げられている。その中で鴻上氏は、麹町中学では学校運営において、それまでの「当たり前」を止めたことで、「手段が目的化」してしまっていた学校(教師?)が変わり、生徒たちもまた大いに成長したことに注目している。


     <「日本の校則はなぜ厳しいのか」19歳の問いに鴻上尚史が明かした高校時代の闘争>

     生徒会長として、学校に知らせず、校則撤廃を目標に密かに結成した、愛媛県下大多数の生徒会連合である『愛媛県高校生徒会連合』のエピソードなど、思わず笑ってしまう内容が随所に書かれた鴻上氏の体験談だが、氏の高校時代とそれほど遠くない時期に、別の高校だが同じ愛媛県東予地方の県立高校に学んだ塾長としては、同時代性と言っていいのだろうか、その場の雰囲気が如実に肌身に感じられ、強い親しみを感じながら、自らの高校生時代を懐かしく思いだした次第だ。

  • 2019年10月
     ものの見方、考え方の確りとした高校生だ、流石、筑駒生と言うところか。しかし、高校生にここまで問題点を見抜かれ指摘されても、なお強行しようとする文部科学省も情けない。文部行政の劣化には目を覆いたくなる。

     <筑駒生、大学入学共通テスト中止を訴える 「ぼくたちに入試を受けさせてください」>

  • 2019年10月
     ついに、夏以降、大学人からこうした中止を求める直截的な声が大きく出始めた。まだまだ中止せざるを得なくなるまでの声の大きさではなく、文科大臣は強行する様子を見せており、官僚たちは非難の声に黙して口をつぐんでいる。予断を許さない状況ではあるが、受験生の本来の受験勉強以外での負担を増やす制度の見直しを訴えることは必要だ。今の政府が容易に中止するとも思われないが、声を上げ続ける必要はあるだろう。

     <2020年度実施予定の「新共通テスト」中止と再検討を!>

     上の「いろいろと拾い集めてみました」の欄の2019年10月の記事、『名門校教師が危惧する「グローバル教育論」の罠!』 の中に、次のような件がある。

     「子どもたちにあれもこれもと教え込もうとするのは、子どもからしてみれば、ありがた迷惑以外の何物でもありません。あれもこれもと与えすぎることは、逆に子どもたちの「生きる力」をそぐことになりかねません。変化の激しい時代だからこそ、しっかり大地に根を張った、地味で泥臭い基本を大切にした教育の価値が見直されなければいけない。名門校の先生方は、そう口をそろえます。」

     今般の大学入試改革、中でも英語民間試験導入に関しては、上のような大きな視点で見直すことが必要だろうと思う。文部科学省よ、引き返す勇気を持て。

  • 2019年 9月
     大学受験生本人の持って生まれた能力、努力の結果得られらた能力、これら以外の、生まれてからの生育環境、家庭の事情などの外的条件により、受験前の段階で既に選別がなされてしまうような試験制度は、実施してはならないと思う。

     <9割が「家庭の経済力影響」 英語民間試験に高校の反応>

  • 2019年 7月
     先日、NHKの記事をひいて、不登校に至る可能性のある「教育虐待」の話をしたが、今回は、同じ不登校問題でありながら、今、学校で起こっている不自然な生徒指導に関わる問題点を指摘している新聞記事をご紹介しよう。

     <学校ルール 子ども苦痛 金沢の元教諭提起 「もっと伸び伸びして」>

     2006年の教育基本法改正以来、こうした出来事が起き始めたようだが、”角を矯めて牛を殺す” ような奇妙な ”躾け” が蔓延し始めているのかもしれない。いまや、不登校生が ”激増” と言って良い状況だと聞くが、こうしたことも、その主要な原因となっている可能性が高い。事は、社会の将来を担う子どもたちの教育に関わることだけに、個別の問題としてではなく、多くの人々が、社会の問題として大きく取り上げ、深く議論すべき時に来ているのではないかと思う。

  • 2019年 7月
     NHKの記事を紹介したい。ここまで凄まじい話ではないが、当塾でも年に何件か受験勉強に関係するのではないかと想定される「困った話」に立ち会うことがある。そのほとんどは能力の高い子供と教育熱心な保護者であり、受験勉強の指導という形で相談を受けることとなるが、生徒が登校拒否状態となっている場合である。

     問わず語りで保護者の話を聞いていると、多くの場合、いじめ等は無いとのこと。ではなぜ?と思っていたが、この記事を見てハタと気づいた。
     保護者が熱心なあまり限度を超えて子供を叱咤激励してしまい、その結果、登校拒否という形で、生徒当人すら意識しない「嫌だという意思」が現れているのではないか?教師に対する不信感を口にする生徒もいるが、もしかすると、それは親に対する不信感の投影かもしれないと思うのは穿ち過ぎだろうか? そういう想像を逞しくしてしまう、考えさせる記事だ。

     <お父さん、僕もう無理だよ~中学受験に潜む“教育虐待”の実態>

     社会に役立つ人財として塾生を育てようとしている当塾においても、常々、心しておかねばならない問題であると認識し、普段からこうした事態が起きうる可能性に感度を高くしておきたいと思う。

  • 2019年 5月
     英語のスピーキングテストを2012年度から独自に開発をはじめ、2015年度より実用化している京都工芸繊維大学では、2021年度より大学入試センターが導入する予定の、英語4技能の民間テストを導入しないことを決めたという。

     開発者で、リスニングやスピーキングの研究で有用な成果を出している、羽藤由美教授は、――4技能の育成をめざしながら、やはり4技能をはかる民間試験の活用を見送ったのは。という質問に、次のような答えている。

     「入試に必要な公正性・公平性に欠けるからだ。新制度では、異なる民間試験の成績で同じ大学の合否判定をする。試験によってはかる能力は違うので、握力と50メートル走の成績を比べて体力の順位づけをするようなものだ。」

     <英語民間試験、利用しないわけは 京都工芸繊維大・羽藤由美教授に聞く>

     文科省は拙速を慎むべきだと思うなぁ。高校生に対して相当”罪深い所業”になってしまうのではないか。特に、地方の高校生、経済力の豊ではない家庭の高校生は、自己の能力以外のところで選別される憂き目にあってしまう可能性が高い。

  • 2019年 4月
     文部科学省が2018年度(平成30年度)に実施した、「英語教育実施状況調査」の結果を発表した。新聞報道によれば、中高生の英語力はほぼ年々上昇しているものの、「目標達成は4割、政府計画に届かず」とのこと。

     <中高の英語力、目標到達は4割 政府計画届かず、地域差も>

     文部科学省が発表した概要を見ると、中学生の英検3級相当以上の生徒数は、平均値42.6%、高校生の英検準2級相当以上の英語力を有する生徒数は、平均で40.2%にとどまり、いずれも、政府が目標とする50%には届いていない。その末尾に、英検準1級以上取得を評価基準とした場合の中学・高校教師の英語力と、中高生の英語力の都道府県、政令市別の結果が、棒グラフで掲載されている。

     <平成30年度「英語教育実施状況調査」(概要)文部科学省>

    これを見てわかることは、

    ① 都道府県、政令市間で、生徒はもちろん、教師の英語力にも大きな開きがある。
    ② 教師の英語力と生徒の英語力との間には、正の相関関係がある場合と、負の相関
     がある場合があり、一概にどちらであるとは言えない。

    ③ 中・高別に教師と生徒の英語力を概観すると、中学の場合は、生徒と教師とも
     平均値からの分散の程度が同じ傾向になるが、高校になると、教師の平均値からの
     分散の程度と、生徒の平均値からの分散の程度には明らかに違いがあり、生徒の方
     が平準化している。

    ④ 福井県は、教師の英語力と生徒の英語力が中学・高校共に全国でも特に高く、
     全国的には必ずしも教師の英語力と生徒の英語力に正の相関関係があるとは言え
     ない傾向に比して、注目される結果となっている。

     etc,.

    と言ったところだろうか。個別には、生徒の家庭環境の違いがあり、また、私立学校の多い大都市部と公立学校主体の地方都市との違いもあると思われるが、少なくとも、都道府県、政令市の間には、大きな英語力の違いがあるものと言える。

     それだけのことであれば、各地の教育委員会、文科省等の努力を促すことで終わるが、問題は、2021年度からは大学入学試験に英語4技能が課される予定となっていることだ。今回の調査結果を見ると、多少の地域差と言って済ますことは出来ない。凡そ、英語教育の機会均等が成されているとは言い難い状況にあると思われる。そうした現状を無視するかのように、入学試験での英語4技能を受験資格とする制度が「強行」されて良いとは思えない。改めて、関係者に再考を促したい。

  • 2019年 2月
     大学入学試験の英語について、2021年度以降の主要国立大学の方針が、ほぼ出そろった模様だ。その中から、各大学のホームページから容易に入手できたものを並べてみる。こういうところに各大学の特徴の一端、特に文部科学省との微妙な距離感の違いが出て来るものだが、見てみると、多少意外なところもあるが、概ね予想通りの展開である。

     出願要件とはしないと明確に示した大学と、要件として積極的に取り入れると早々に明言している大学、その中間に位置する、とりあえずは要件としないとする大学。その方針を一方からもう一方へと並べてみると、見事なグラデーションを示す。

     ・平成33年度入試における本学の基本方針について(予告)     東北大学
     ・北海道大学における英語認定試験の活用ついて           北海道大学
     ・2021年度入学者選抜における入学者選抜方法の検討について  東京大学
     ・2021年度入学者選抜における変更について              京都大学
     ・2021年度入学者選抜における変更ついて(予告)           名古屋大学
     ・2021年度以降の入学者選抜(一般選抜)における変更について  九州大学
     ・平成33年度以降の学士入学課程入学者選抜試験の基本方針   東京工業大学
     ・2021年度入学者選抜の変更に関する予告               大阪大学
     ・4技能外部英語検定試験の導入について                筑波大学
      (各大学のホームページに見当たらなかった場合は省略してあるので、寛恕願います。)

     各大学がそれぞれ特色のある入試を行えばいいと思うが、それはあくまでも同じ土俵で競うことが大前提だ。地方の高校や経済的に恵まれていない高校生たちへの門戸を、本人の能力以外のことで狭めるようなことだけはするべきではないだろう。くれぐれも留意してもらいたい。
     いずれはどこかに収まるはずだが、当面の予想をしてみると、このグラデ―ションは、今後の大混乱の予兆のようにも思えなくもない。

  • 2019年 1月
     平成の歴史とともに生まれ、平成の歴史とともに役割を終えようとしているのが、「大学入試センター試験」だったと言って良いだろう。この間、国の教育政策、国立大学運営は大きく変化してきたが、その変わって行く姿を体現していたのが、他でもないセンター試験だった。

     <高校教育を変えたセンター試験、「学力低下論争」が転機>

     その時々の、教育に対する社会の批判を意識し、また、時の政権の教育に対する考え方にも否応なく対応し翻弄されても来た30年だったのではないか。役割を引き継ぐ「大学共通テスト」も、既に同じような気配が濃厚だが、教育は国家百年の計であるべきだとするならば、目先の利益やイデオロギーに毒されない姿になってほしいものだ。

  • 2019年 1月
     う~ん、ついに受験教育関係者からこう言う声が出てきた。とにかく、受験生に無用な負担を掛けない制度となるよう、速やかに問題点を是正するか、あるいは一旦、延期すべきだ。

     ”このような状態は数年続き、また、同じようなセンター試験型の入試が復活するか、あるいは、各大学の個別試験だけが入学試験として残ることになるだろう。私としては、後者であることを望む。政府や財界人も、多様化や国際化を叫ぶなら、もう、国全体で共通のテストを実施することなど諦めて、各大学の「多様性」と「国際性」 をもっと尊重し、大学の自主的な入試作成をどんどん認めてはどうだろうか。”

     <2年後、センター試験廃止で大学入試は「カオスな世界」になる>

  • 2018年12月
     東京大学に続いて、東北大学が英語の入学試験に、民間4技能試験の受験を出願要件とはしない旨の決定を発表した。東大よりも一歩踏み込んだ形だ。

     ただし、東大も同様だが、英語力を評価する国際的基準『CFER』の6段階あるレベルの下から2番目をクリアすることが出来る受験生でなければ、少なくとも英語の試験に関しては、合格はおぼつかないと明言している。受験生は心得るべし、だろう。他の有名国立大学へ与える影響は少なくないと思われる。

     <平成33 年度入試における本学の基本方針について(予告)>

  • 2018年12月
     生徒の勉学はどうあるべきかを起点に、様々な視点からの検討が必要だと思う。その議論のためにも、こうした教師、学校管理職の誤解は正しておくべきではなかろうか。

     <生徒に部活は必須 管理職含む教員の2割が誤解(内田良)>

  • 2018年11月
     大変に興味深い取材記事を見た。東京の名門公立中学校「麹町中学」の校長先生との対話だ。クラス担任の教師をを固定しないで教師全員が担任となる、定期試験をなくし単元試験のみとする、実力試験は年数回だが試験範囲は定めない、制服制帽を学校が指定しないでPTAの自主的判断に任せ、靴、鞄の規制はなくする、生徒の自律性を損なうことを極力排する、などなど、これまでの慣習と比べれば破天荒なことが実際に実施に移されている。

     教育委員会の強力な反発と指導がありそうな事柄ばかりだが、これまで何も言われないとの事。記事の中にあるが、そもそも、こうした事柄は、文部科学省の教育指導要領などには何も書かれていないことで、単なる慣習でしかなかったので、文句のつけようがない、些か不謹慎な言い方だが、「やったもの勝ち」ということのようだ。
     ちなみに、工藤校長は、最近、流行りもののように、東京・大阪で見られるようになった「民間校長」ではありません。

     顔をしかめる向きもあると思われるので、しかし、決して奇異なことではなく、生徒の自律性を担保するための望ましい「教育改革」だと理解される事例を、記事の中から具体例を拾って示そう。

     ”工藤さんのもう⼀つの特徴は、「精神論」に立たないリアリズムである。学校での現場で、「忍耐」「礼儀」「協調性」を強調して教えるのはよくみられる光景だが、それはむしろ「自律」の精神を奪ってしまう、とみる。

     例えば、学校などの教育現場、あるいはオリンピック、災害などのときに一斉に唱和される「心を一つに」という言葉。こうした言葉は美しいが、日本の多様性を阻む要因にもなっていると感じている。「心はみんな違っていいと思います。人を差別する心は、なかなか完全には消し去れない。でも、行動は誰でも変えられる」思っていた。

     人間は、心の中をのぞくと、みんな弱いところがある。つい自分と他人、あるいは他人同士を比べて、優劣をつけてしまうし、人の好き嫌いもある。だが、実際の行動として、人を差別しない、いじめない、多様な価値観や言論を守っていくことはできる。そのためには「心」より、「行動」の教育が重要だと工藤さんは言う。

     麴町中学校で重視しているのは、「みんなが違っていい」という多様性である。学校に限らず、日本社会に多くみられる「同調圧力」と一線を画している。
     何かをやろうとすると意見の対立が起きるが、それも全く構わない。社会では対立が起きるのは当然なので、学校現場でもむしろそれを奨励する。そのとき、「目的」に照らして話し合い、合意形成ができるか。その対話のプロセスを学ぶことが、良い社会人になるための訓練だという。


     例えば、体育祭の目的は「生徒全員が楽しめること」。学校が主催するのではなく、完全に生徒に運営を任せているのだが、そのためにどうすべきか、生徒たちは徹底的に話し合った。
     「全徒全員がリレーに参加するかどうか」ということが議論になった。大半の生徒は全員参加に賛成だったが、少数の生徒はいやがったという。運動が好きな人も嫌いな人も含め、「全員が楽しむ」のが目的であれば、全員のリレーは行うべきではないという結論となり、リレーは希望者のみの参加にしたという。”


     <『公立校でもここまでできる学校改革』-麴町中の工藤校長が目指す「現代の寺子屋」とは->

     ちなみに、修学旅行も⼀味違い、「ツアー企画取材旅⾏」と称し、⼤⼿旅⾏会社と連携し、生徒たちがツアー企画を提案する形にしているそうだ。

     どうだろうか、これまで私たちが受けてきた学校教育との違いには、相当大きなものがあると言えそうだ。我田引水で恐縮だが、当塾名の副題「自律塾」も、全く同じか否かの判断は難しい面がありそうなものの、基本的に工藤校長の指導理念に共鳴するものであることは言うまでもありません

  • 2018年10月
     二転三転していた、2020年度の大学入学共通テストの英語に関する民間試験の扱いの方向が決まりそうだ。国立大学協会は基本的に受け入れ姿勢であるが、その運用については、各大学の自主性に任せると言っていた。東京大学が下記のように決めたことで、他の多くの有名大学も追随するであろう。関係する小中高生は、志望大学の動向を今後も注視していきたいものだ。

     <東京大、英語民間試験の成績提出必須とせず 新大学入試(朝日新聞)>

     もともと大学・高校側との緊密にして十分な擦り合わせのない、無理筋の文科省の提案であったので、しばらくは混乱が続くと見ていたが、有力校の東京大学がしっかりとした見解を出したことで、先の見通しが付いたといえよう。

  • 2018年 9月
     学習指導要領案で、穏やかじゃない改革が提起されている。「公共」の名のもとに道徳教育を行い、その中で、基本的人権と平和主義を削除し、特定の価値観を植え付けようとしているかのごとき指導要領となっている。

     道徳の教えというのは、無条件で個人の尊厳を前提にしておかないと、一人ひとりの人間がその居場所を失うことを許してしまいかねない。その意味で、基本的人権の尊重は、道徳においても大前提とすべき事柄だと思う。それを削除して一体何をしようというのだろうか?不思議な話だ。

     <「新高校学習指導要領の問題点」(NHK、視点・論点)>

  • 2018年 3月
     う~ん、こういう試験を大学入試でするかなぁ?入学後に「実践語学研修」等と言った科目を、必修あるいは選択で2単位くらいとらせる仕組みにしたので良いと思うなぁ。入試では、確りと英語の基本的素養を問うべきではなかろうか?

     <『英語は語数増、正答率ばらつきも 大学共通テスト試行調査』(共同)>
     <(社説)入試英語改革 東大の重い問題提起 >

     学生が自主的に語学実習をする事の出来る仕組み(講師陣と施設、外部委託も考えられる)を整備しておき、それを活用することが学生にとってのメリットになることを、科目履修時にしっかりと教え込んでおけばいいのではないか?

  • 2017年11月
     大学入試センター試験に代って2020年度から始まる「大学入学共通テスト」の英語について、改めて続報が出た。それによれば、英語の試験は2020年度から2023年度までは、大学入試センターが作成する問題と、民間団体の試験を併用する。

     その民間団体の選定は、本年12月20日までの公募に応じた民間団体の応募内容を審査し、来年3月に結果を公表する、とのこと。

     前報にも記載したが、既に英語検定協会やベネッセの名前が出ているので、おそらく応募は、この2社の他に若干の民間団体が加わり、2社の比較を軸に審査が行なわれるだろう。なお、2024年度からの大学共通テストの英語の試験は、民間団体の試験のみとなる。

  • 2017年11月
     大学入試、2020年の大改革に向けて様々な検討がなされている。先般も英語の試験についての結論が一つ出たようだ。ある新聞では、

     ”2020年度に始まる「大学入学共通テスト」の英語について国立大学協会は10日、当初の4年間はセンターが作成するマークシート方式の試験と、英検やGTECといった民間検定試験の双方を、一般入試の全受験生に課すことを決めた。”

    といった報道がなされている。受験生には大きな負担増となりそうだ。

     入試改革の議論でいつも不思議に思うことは、目標とする改革にとって、ホントにそれでいいの?という本質論も勿論だが、入試を受ける生徒たち、特に大都市と比べて受験体制の貧相な地方都市の高校生たちのことを、どこまで考えた改革なのだろうか、ということだ。
     そうした受験生を、置き去りにしているような議論ばかりが目について仕方がない、と思うのは私だけだろうか?

  • 2017年 8月
     なんとまあ、小中学生の夏は、忙しい。学校・宿題、クラブ活動、塾、習い事。習い事とクラブ(多くは体育会系)で半日が消え、体力のない子は夕食後お風呂に入ってすぐ寝てしまう。いったい、自主自学勉強は何時するんだろう? 学校の宿題を熟す時間はあるのだろうか?